2014年6月28日土曜日

『ハムレット』とは何か.




ハムレット Hamlet 飜譯本文:
Scene 1 Scene 2 Scene 3 Scene 4 Scene 5 
Scene 6 Scene 7 Scene 8 Scene 9 Scene 10 Scene 11 
Scene 12 Scene 13 Scene 14 Scene 15 Scene 16 Scene 17 Scene 18 
Scene 19 Scene 20

『マクベス(下書き)』は,こちら
                              

『ハムレット』とは何か. (1)

以下は,twitter の文章を綴り併せたもので,
取留めの無きところは,今後折〻に修正加筆する.


『ハムレット』に關しては,實に樣〻なことが言はれ語られ傳へられるが,決定版と言つて良いものに出會つたことがない.あるのは,斷片的に,登場人物に割り振られた臺詞(せりふ)に感心する類ひの他は,『哲學的な,餘りに哲學的な』とでも言ふ他無いものばかりだ.或は核心を語らうとしない.邊りを迂路つくばかりの有樣だ.

昭和期の英文學者福原麟太郎は『シェイクスピア講演』の中で,自分は,ハムレットが母親ガートルードを詰る場(俗に第3幕第4場)が終ると興味が無くなり,殆どの場合そこで退席すると述べてゐる.それでゐて,この作を,失敗だとも駄作だとも言はぬ.妙なことである.

福原の退席は,彼が以降の展開を誤解してゐたからであらう.上演側も誤解に基づく芝居作りをしてゐた筈で,兩者とも芝居の後半は,たゞドタバタと人が死ぬ『無機的な』展開あるのみと考へてゐたからに他なるまい.つまり芝居を通じてのテーマが把握されてゐないのだ.

ともかくも,「ハムレット本人は興味深いが,筋書きは『添へ物』」と見るのが,大方の感想であらう.つまり作者は芝居そのものより,主人公ハムレットといふ『人物像』を描きたかつたとの見方である.ハムレットの『憂鬱』だの『英雄指向』だのと語られる所以である.

ハムレットと『憂鬱』は常に對で語られるが,生來彼が『憂鬱症』を患つてゐた譯ではない.原因は明らかだ.母親の,餘りに早過ぎる『再婚』である.しかも相手は豫〻餘りに受入れ難く思つてゐた父王の弟,叔父のクローディアス.こんな事態は誰にとつても許せまい.

更にこの再婚はキリスト教の戒めに反する.
  レビ記 20:21 人もしその兄弟の妻を取とらば是汚はしき事なり 彼その兄弟の
        陰所を 露はしたるなれば その二人は子なかるべし 
つまり神に祝福されざる結婚である.これに目を瞑るデンマークは,汚れの極にある.ならば『憂鬱』も取り憑かう.殊更ハムレットに限つた事ではない.つまり,その程度のことなのだ.

「デンマークは,汚れの極」…これが主人公ハムレットの開幕當初の『認識』だ.であれば彼は,その事態にどう立向ひ,その試みは如何にして成し遂げられたか或は否かをリポートすることが,劇作家の役目である.つまり芝居は,この筋立てを『核』とする他はない.

ところが,この點の認識が極めて曖昧な評論に溢れてゐるのが,戯曲『ハムレット』を取卷く今日の現狀だ.

主人公が命を賭して,穢(けが)れたものを淨化する,さうであるなら『ハムレット』も,決して不可解な『問題劇』などではなく,その點からすれば『有觸れた芝居』となる.有觸れたとは,それ自體,褒め言葉では,當然,ないが,芝居の枠組とは,さうしたものだ.その枠組が有觸れてゐればこそ,芝居の中身を鑑賞しうるのだ.

しかしながら,『ハムレット』に關しては,さうした視點からの解釋が,殆ど失はれてゐる.どれもこれも,『ハムレット』の特殊性を強調するものばかりに見える.それゆゑ『問題劇』なのだらうが,しかしこの芝居は,初演當初より,大變な評判をとり,人氣を博したと言ふ.はたして『問題劇』などゝ言ふ曖昧な代物を,エリザベス朝といふかジャコビアンたちが,賞讚したとは考へられぬ.何かきつと,今日の我〻の側に『見落し』があるのではないか.それは,何か.

僕の飜譯は,概ね以上のやうな『假説』から始まつた.