2018年5月29日火曜日

ハムレット Hamlet 飜譯本文:

『マクベス(下書き)』は,こちら

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   いやまあ,何とも呆れた事に,この blog を 二年以上も書き込みもせず放つてゐた.その間,殆んど休み無く,戲曲『ハムレット』に關するあれこれを考へてはゐたのだが,140字 で濟む Twitter の魅力に負けての『無沙汰』である.

   二年前に比べると,今の己れの『つもり』ではだが,考へ方も深化して,耳を傾けて戴ける面も多少はあらうかと,再登場を試みる次第.ま,以前の『御託』とは異なる點も多〻あらうが,All's Well That Ends Well. の言ひ譯をあらかじめ,お許し願ひたい.

…と,さて,今日は,何を語らうか……その點の何らの用意も無く,謝るほか無いが,ともかくは『ハムレット』全體の,あたしの讀み方から參らうか.

   あたしの讀み方の『特徵』はと言へば,主人公の性格に關しては,長年『流行』の,シンネリムッツリな主人公像とは大違ひで,しかし,かと言ひ,近年流行る,理由も定かでない,活動的な『行動型ハムレット』を名吿る,ドタバタと亂暴な主人公像とも大いに異なる.

   一言で言へば,極めてノーマルな靑年を,主人公とする芝居であるとする解釋である.これまで戲曲『ハムレット』に就き,やれ「人間のアイデンティティーを問ふ作品である」などの,『哲學的』とされるやうな要素なるものは,殆んど問題とするに足らぬとする讀み方でもある.

   さうした點では,あまりにノーマルな主人公と聞けば,落膽される向きもあらう.殊にはだが,主人公と『哲學』なるものを切り離す讀み方となると,端から興味を削がれる方〻も多からう.何も總てを無視せよなどゝは,あたしも言はぬが,なるほどに芝居の中の『話題』としては『哲學的』なる臺詞も有るが,さうした感懷は,この主人公に限つたことでは無く,誰の頭にも過ぎる程度はするもので,それで芝居の性格や骨組みが,大きく變へられる事はあり得ぬ.

   ちなみに,何やら得體の知れない『哲學的』なるものと主人公を結びつけたのは,Coleridge (1772~1834) による『誤讀』 を初めとするのだが,その話題は追ひ追ひ觸れる事として,それは兎も角,芝居全體がノーマルなものである事は,本來必須の事であり,飽くまで優先されるべきだと,あたしは考へる.隨つて,あたしの飜譯を讀まれる方〻には,『哲學』なんぞの,敢へて言へば『夾雜物』は,綺麗さッぱり,先づは忘れて戴きたい.ま,しばらくの間の『御辛抱』である.芝居としてなら,あたしの讀み方に隨つて下さらうなら,必ず大きな『感動』を味はつて戴けるものと確信してゐる.

   兎も角芝居は,觀終つた時の見物を,唸らせるか否かゞ勝負となる.疑問の餘地や謎を抱かせるなど,有つてはならぬ事であり,劇場での經驗は劇場の中で,見事な完結を見せねばならぬ.それを御覽に供する事が,芝居作者の使命である.

   そして,こゝに,まつたく永らく『誤解・誤讀』されて來た,この芝居を,正しく御覽に入れる事は,これだけ豪語した我が務め.では,いよいよと,先づ開演と參らうか.