2017年4月13日木曜日

Hamlet 總論への memorandum

ハムレット Hamlet 飜譯本文:

『マクベス(下書き)』は,こちら
                              

Hamlet 總論への memorandum

創作上の人物ではあるものゝ,ハムレットといふ靑年王子の目的は何か…この芝居を觀る上で我〻が注目すべきは其處であつて,時〻に現れるハムレットの『惱み』の類(たぐひ)は,目的實現の爲には,克服されるべき『話題』に過ぎない.
父王の亡靈が,何を望んでゐるかを正確に捉へる必要がある.『復讎譚』との括りで觀ては,誤つ事となる.

死後の世界で裁きを受けるとは,Claudius すらも受け容れてゐる考へ方である.

亡靈はハムレットに對し,決してClaudius に同等の苦しみを味(あぢは)はせよと云つたやうな恨み事からの復讎を命じてはゐない,また,望んでゐる樣子も無い.デンマークの僞善と腐敗を一掃せよ,たゞし己れの心を汚す樣な手立ては用(もち)ゐるな,また母親に關しては,自(おの)づと己れの罪を悔いるにまかせよとだけ命じてゐる.つまり正義を實現するに,己れが新たな僞善,腐敗に陥る勿れと言ふ事で,その點はLaertes の『復讎』との,決定的な違ひがある.

Hamlet が母親の墮落に深く心を傷附けられて『死』に救ひを求めようとした事は間違ひ無い.その衝擊が幾度も繰返し甦(よみがへ)り,人としての己れの誇りを踏み躙られて,苦しみ苛まれた事は慥(たし)かである.しかし,果して,人間の『死』そのものが,『救ひ』を齎してくれるものか否かについては,結論を引出す手立てが人間には無い.

人間の『死』といふものにつき,Hamlet が明確な結論を見出し得たか否かに關しては、何とも言ひ難い.作者である沙翁自身,搖るぎ無い結論を得てゐたか否か,問はれゝば,答へに窮したであらうとしか,言ひやうも無い.Hamlet の述べる『演戲・演劇論』にあるやうに,芝居はこの世をあるがまゝ,鏡に映し取るやうに,揭げて見せるだけであり,神ならぬ身が,神になる譯のものであらう筈も無い.皆,人間が有限な存在である事に、我も沙翁も違ひは無いのである.そして,さうした『そのまゝ』の姿を芝居に寫し取つたのだ.さうした中にも,取卷く事情は急迫する.まさに我〻の人生とは,さうしたものである.たゞたゞ正義の實現だけは,不正を押し通す相手を前に,捨て去り難い要請の相を深めて行くのである.

2016年12月5日月曜日

『ハムレット』第16場(4幕5場とも)について.その7

ハムレット Hamlet 飜譯本文:

『マクベス(下書き)』は,こちら
                              

『ハムレット』第16場(4幕5場とも)について.その7

 廷臣の話によればオフィーリアは,王國内に隠謀の動きがあると言ひ,ついては女王に知らせるための面會を求めてゐると言ふ.しかし既に正氣は失はれ,隱謀話の妄想に從つて振舞ふ樣(さま)がガートルードに報吿される.狂人の信ずる事に根據は無いが,斷片的に,たゞ隱謀があるとの『狀況』を固く信じ,それに隨(したが)ひ,氣を昂らせてゐると言へる.

 狂人には狂人の生きる『世界』があり,その振舞ひは,信ずる『世界』の中に於いては,他人(ひと)には譲れぬ理窟に基づかう.それだからこそ,女王に會へぬと聞かされゝば,怒りや苛立ちを露はにもする.

   狂人であるから仕方がないと今日の我〻は考がちだが,如何に宰相の娘とは言へ,自らが女王に進言を試みるなど,それ自體が異常な事である.有り得べきは,せめて父親のポローニアスを探し求めるといつた處が限度であらう.ところが事態は,さうした限度を既に超えてゐる.つまり,自らが進言しなくば事は收まらぬとの決然たる態度である.それほどの思ひとは,はたして何なのか.

 さて,オフィーリアは王宮に入るまでは『隱謀』話の妄想を抱いてゐたが,第一聲で女王を探し求めるものゝ,そこが狂人の狂人たる所以,『隱謀』に纏(まつは)る『世界』はまつたく消え去り,オフィーリアは突然に歌を唄ひ始める.

    歌などを唄ふべき場で無いことは明らかであるが,これはオフィーリアが,事の前後の脈絡も無く既に異なる『世界』に入り込み,オフィーリア自身にとつては,疑ふべくも無き新たな『場』が始まつた事を意味してゐる.

 從來の解釋もしくは上演では,すべて押し竝べて『狂女の振舞ひ』であると見て,たまたま歌を唄ふとし,オフィーリアは,たゞひたすらに狂ふといつた有樣となる.解釋と言はうより,字面どほりの場面であるとして演じられてゐるだけである.

 しかしながら仔細に見れば,さうした中にも,その場の登場人物たちに何事かを傳へようとする樣子が見て取れる.つまり此處でもオフィーリアは,狂人なりの確とした『世界』の中にあり,その『世界』の中で,己に相應しい何らかの『役割』を勤めてゐるのだ.人間の『心性』といふ點からは,狂人も正氣の人間も變りは無い.たゞその『世界』が,目の前の『現實』とは異なる事が,狂人の狂人たるところなのである.

   以上の事情を理解して戴いた上で,この場面を『理解』して行かう.

   では,第一聲の後オフィーリアは,はたしてどのやうな『世界』に己れがゐるものと思つてゐるのか.

 ところでオフィーリアの歌につき多くの方が,恐らくは若い男女の悲劇を描いた『ロミオとジュリエット』の物語に引き摺られてか,先入觀から,『ハムレットへの叶はぬ思ひ』なるものゝ痕跡を讀み取らうとする.その影響がまつたく無いとは言はないが,オフィーリアの狂氣には,己れを哀れとするやうな『正氣』を殘す餘地は無い.

事情は上に述べた通りである.
 

2016年4月7日木曜日

『ハムレット』第16場(4幕5場とも)について.その6

ハムレット Hamlet 飜譯本文:

『マクベス(下書き)』は,こちら
                              

『ハムレット』第16場(4幕5場とも)について.その6

さて,冒頭行き成り,狂つたオフィーリアの登場第一聲は,オフィーリアが父ポローニアスに成り切つてのもの…などゝ解説されても,俄には,この『新説』に信じがたい思ひを抱かれる方が殆どであらう.しかし,思ふに,さうした『驚き』こそ,シェイクスピアが『劇的效果』の面から狙つたものでもある.

と言ふのも,オフィーリア登場直前,その言動がをかしい事を,廷臣(Q2版.F1版ではホレイショー)の口から既に語らせてゐる.つまり作者は『種明かし』を進んで行つた.ならば,語りそのまゝにオフィーリアを登場させたのでは,さしたる驚きも,觀客は覺えない.これは今日の上演例を見ても明らかで,どれほど役者が聲を張り上げても,觀客の心に強い驚きを與へる事は無い.たゞ淡〻と,お定まりの『狂女』の場面を見せられるだけだ.

さうした『不首尾』を,シェイクスピア程の手練の作者が,するであらうか.が,しかし,實を言ふと,この場面を,僕は當初,これまでの解釋どほりに見て,オフィーリアの二度に及ぶ登場に退窟を覺え,シェイクスピアも芝居作りの基本を辨(わきま)へぬとはと,いさゝか呆れてゐた.「この程度か」と.今は己れの不明に呆れて,恥ぢ入るばかりである.シェイクスピアは,觀客の豫想を超えたオフィーリアの登場をもつて,應へてゐたのだ.ホレイショーによる『種明かし』は,充分に意圖された『仕掛け』なのである.まつたく見事な限りと言ふほか無い.


2016年4月5日火曜日

『ハムレット』第16場(4幕5場とも)について.その5

ハムレット Hamlet 飜譯本文:

『マクベス(下書き)』は,こちら
                              

『ハムレット』第16場(4幕5場とも)について.その5

だがしかし,このやうな『解釋』は,これまでの日本語譯で讀む,または,その上演を見る方〻にとつては,まつたく思ひもよらぬものであらう.なぜなら,逍遙を始め軒竝みに,どの飜譯者も,オフィーリアの一度目の登場の,すべての臺詞を『女言葉』に譯してしまつたからだ.これでは作者が,二度目に分けての登場とした意味は失はれ,後はたゞだらだらと,意味不詳な狂女の言葉の羅列と受け取る他は無い事となる.

これは『誤譯』の齎す典型的な混亂を示す例ではあるが,この場面に關しては,飜譯者たちだけの『誤ち』に止まらぬ問題がある.そもそも彼ら飜譯者たちが底本と仰いで用ゐた英國の校訂本に,オフィーリアが,己れを亡き父親のポローニアスと妄想し,現れるとの發想が,まつたく無い.その結果,誰も彼も,『場面の造り』を理解し損ねたまゝ,何とは無しに御定まりの『狂女』の場面として飜譯する事になつてしまつたからだ.つまり,シェイクスピア劇の『本場』とされる英國の校訂者たちも,さうした程度の讀み方しか出來てゐないのである.

ところで,この冒頭の臺詞には,面白い『仕掛け』がある.今一度原文を見て頂きたい.

 Where is the beautious Maiestie of Denmarke?

狂つたオフィーリアが,この臺詞と共に王宮に現れたと言ふことは,父親ポローニアスがガートルードを訪ふ折には,この物言ひを好んで用ゐてゐたといふ事である.このうちの,世辭を含んだ單語と言へば,まさに beautious である事は理解頂けよう.

そこで,思ひ出して頂きたいのが,第7場,ポローニアスがクローディアスとガートルードに,ハムレットがオフィーリアへ送つた戀文を讀み聞かせる件(くだり)である.この折ポローニアスは,ハムレットがオフィーリアを褒め上げる際に用ゐた,とある單語を,頻りに批判する.原文を引くと,

To the Celestiall and my soules Idoll, the most beau-
tified Ophelia, that's an ill phrase, a vile phrase,
beautified is a vile phrase,  (イタリック部分は手紙文)…となる.

つまりポローニアスは beautified の單語について,口を極めて文句をつけてゐる.ならば,しかし,どのやうな單語に替へるべきかとは述べてをらず,話題は,何とも,中途半端なまゝ,打ち切りとなる.觀客としては,半ば取殘された思ひを抱かされる場面と言へる.その答こそが,己れをポローニアスと妄想するオフィーリアの,第一聲に含まれた,ポローニアス氣に入りの單語, beautious といふ譯なのである.





2016年3月31日木曜日

『ハムレット』第16場(4幕5場とも)について.その4

ハムレット Hamlet 飜譯本文:

『マクベス(下書き)』は,こちら
                              

『ハムレット』第16場(4幕5場とも)について.その4

兎も角もである,ハムレットはオカルト物の芝居では無い.當時,狂人の目には,正氣の者では見ることの出來ぬ眞實が見えるものとの考へ方があつた事は,この後のレィアティーズの臺詞からも窺へるが,世の中には,さうした不思議なこともあるといふ程度の,斷片的な描き方に留まつてゐる.第一,オフィーリアの語るところは,目の前の現實とは,まつたく異なつてゐる事は明らかだ.この物語の主筋としては,そのことの方が遙かに重要である.

話を戾すと,それに,もしオフィーリアが『皮肉』を述べたのだとしたら,これを完璧な『狂氣』とは言ひ得無い.尠くとも何らかの『正氣』を殘してゐるといふことになる.完璧な『狂氣』となれば,今,目の前の出來事とは,まつたく別の世界の中に生きるのでなければ,救はれ得る餘地を殘してしまひ,觀客の心の中に,何故救ひの手を差し伸べる場面を作らぬのかとの疑念または願望の念を生じさせて仕舞ふ.さうした不首尾をシェイクスピアほどの作者がする筈も無い.

では,オフィーリアは今,どのやうな世界にゐるのか.冒頭の臺詞からして,既に己れが,どのやうな狀況の中にゐると思つてゐるのであらうか.ふたゝび引くと,この臺詞である.

Oph.  Where is the beautious Maiestie of Denmarke?

(さき)に僕は,この臺詞には,過度の『世辭』が含まれてゐると述べたのだが,如何であらうか.『皮肉』では有り得ぬとすると,その樣に思へぬか.しかしながら,である.如何に狂つた少女であるとて,あまりに過ぎた『世辭』ではないか.かうした『世辭』を,述べるオフィーリアの『必然』は,どこにあるのか.さう,皆さんは,思はれぬか.ご自身が『役者』となつたつもりで,御考へ願ひたい.いつたい全體,どんな氣持で,この臺詞を口に上せるのか.この明らさまな,『世辭』を述べ得る情念とは,と.


答は,この文の,冒頭に掲げたごとく,これを臆面も無く言ひ得る者は,オフィーリアの父,ポローニアスを措いては他に,まつたく有り得ない.と言ふ事は,果たして何を意味するか.オフィーリアは,父を失つての絶望から,『狂氣』の餘り,己れが父親ポローニアスの『不在』を埋めるといふ,何とも彼とも,哀れを窮む『妄想』に,取り憑かれたのだ.つまり,この場冒頭のオフィーリアは,ポローニアスとして,振舞ふのである.いやもう,何たる,シェイクスピアの『手法』であらうか.

2016年3月30日水曜日

twitter 『ハムレット』とは何か.より.



ハムレット Hamlet 飜譯本文:
Scene 1 Scene 2 Scene 3 Scene 4 Scene 5 
Scene 6 Scene 7 Scene 8 Scene 9 Scene 10 Scene 11 
Scene 12 Scene 13 Scene 14 Scene 15 Scene 16 Scene 17 Scene 18 
Scene 19 Scene 20

『マクベス(下書き)』は,こちら
                              

 さてまあ,寄り道の tweet に耽り,標題の Hamlet がご無沙汰で,些と此れからは本筋を,囀らう.

Hamlet なる御芝居は,實の處,極く常識に適ふ筋立てゞ出來てゐる.世に溢れ反る難解な解釋は,單に學者達の,『讀み落し』を發端とする.

では何を『讀み落し』たのか.

結論を言ふと,最終場での Gertrude とHamlet の遣取りの『意味』を讀み落としたのだ.

 Quee. The Queene carowses to thy fortune Hamlet.
 Ham.  Good Madam.

この臺詞は最終場,Gert.がHam.に向け杯を飲み干す折の遣り取りである.この際のGert.による祝福が,どれ程重要な意味を持つかを,學者たちは悉く,讀み落して來た.結果,デンマーク王國の女王であるGert.を,恰も單に輕率な女とのみ看做し,延いては芝居を誤解したのだ.

ところで,今こゝに言ふ『學者』とは,唯に日本の『學者』に限らない.Shakespeare(以降,字數節約の爲「沙翁」とする) 劇の『本場』と言はれる英國を始めとし,世界の評家が誤つたのだ.ならば彼等に學んだ日本の學者や飜譯家達が誤たぬ筈も無く,その上演も同樣の有樣である.

今日『ハムレット』は,かうした『環境』に置かれ,觀客に供されてゐる.この爲,『鑑賞』をする以前に,理解し難い物となつてをり,眞正の悲劇としては,殆んど何らの感興も,催させることは無い.たゞ人〻は,『沙翁の最高傑作』だの『名作』だのとの謳ひ文句に踊らされてゐる.情け無い事に.

だが然し,忘れてならぬ事がある.この作品は初演されたエリザベス朝時代以降大變な評判を呼び,繰返し上演された.もし今日の樣な『解釋』(…らしき代物なのだが,それは措き)で上演されてゐたとするなら,當時の觀客の鑑賞眼は,賴りにならぬ程度であつたと言はなければならぬ.果してさうか.

今「エリザベス朝時代以降…繰返し上演」と書いたが,この表現には大きな『問題』がある.實はまつたく上演されなかつた時期があるからだ.まつたくである.これは唯『ハムレット』だけに止まらず,何と沙翁のすべて戲曲が舞臺から,姿を消した.

いやそれどころか,舞臺そのものが英國から消えた.つまり沙翁の作に限らず,芝居といふものが英國の地から消えたのだ.1642年9月2日,娯樂を敵視した『敬虔』なる淸敎徒革命政府は英國のすべての劇場の閉鎖を命じ,演劇の上演を禁止,更には劇場建物も解體された.隆盛を誇つた所謂エリザベス朝演劇は,この時まさに『絶滅』したのである.

その後,革命政府は分裂分解し,1640年に『王政復古』の時代となる.それまでチャールズ2世と共に佛國に逃れてゐた劇作家達も歸國,芝居の禁止も解かれ劇場も新たに建てられ,再び盛んに芝居の上演される時代が訪れた.が,一度『絶滅』した『エリザベス朝演劇』が,かつての姿で復活する事はなかつた.

さう,まさに「…かつての姿で」は.つまり上演されはしたのだが,舞臺の樣子は 似ても似つかぬ『復活』であつた.と言ふのも當時,歸國した劇作家などの演劇人は,その頃佛國を初め大陸ヨーロッパで隆盛であつた上演形式を最上最新のものとして,その『枠組み』での舞臺作りをしたからである.

その典型が,今日までも大方の舞臺樣式の主流である『額縁舞臺』の導入だ.舞臺前面を proscenium arch と呼ばれる『額縁』で圍ひ,場面ごとに幕を下し情景を飾る.室内の場面なら壁で圍ひ家具を置き,屋外の場面では,遠景を背後に木〻を配する『寫實』を旨とした上演方法だ.

さうした『趣味』の導入が可能となつたのは,額縁舞臺芝居は精〻,數幕の場面轉換で濟んだからだ.ところがである,沙翁劇の場面數は,たとへば『ハムレット』も20場ある.これを一〻飾り直したのだから堪らない.舞臺裏は右往左往.その結果,到底上演には適さぬとの議論が持ち上がつたと言ふ.

揚げ句沙翁の作品は,かつて英國演劇が『未熟』であつた時代に作られた爲,樣〻な不都合が生じるのだ,いや,抑〻上演の爲の作などでは無く,臺詞の遣取りといふ形式を用ゐてはゐるが,觀客の爲にでは無く讀者の爲に書かれたものであつて,板に載せる意圖など元より無かつたといふ説まで現れる.

如何であらう,これを傳統の『絶滅』と言はずして,何と呼べば好いのであらうか.淸教徒革命による破壞を經て,彼等の手許に殘つてゐたのは,自らは物言はぬ,印刷物としてだけの芝居であつたのだ.つまり上演の實際は,殆んど何一つ,後世の英國に傳へられること無く,既に途絶えてゐたのである.

今ひとつ,さうした例を紹介して置かう.沙翁の作の多くが初演され,自身も役者として樣〻な舞臺を勤めた劇場 The Globe に關してだが,今日でこそ,それが圓形の建物であつた事を,多少とも沙翁の作の解説を讀まれた方なら承知であらうが,それすら『王政復古』後には,全く忘れ去られてゐた.(續く…)







2016年3月27日日曜日

蜷川『ハムレット』の頓珍漢

ハムレット Hamlet 飜譯本文:

『マクベス(下書き)』は,こちら
                              
下記リンクの「蜷川『ハムレット』」なるものを見て….


     いや,驚いた.何とこの先,ガートルードは最終場,毒入りだとは知らずだが,我が子ハムレットへ杯を掲げ,どうあつても『祝福』blessing を送らなければならぬと言ふのに,その『伏線』となる,缺くべからざる大事な臺詞が,綺麗さつぱりカットされてゐる.これでは話がどうにもかうにも繋がらぬ.觀客たちは,何が何やら,たまたま偶然ガートルードは,毒入りワインを飲んで死ぬとの,あれよあれよのドタバタ芝居を見せられる嵌めとならう.

     と,さう思ひ,その最終場(http://youtu.be/ZzUM5bAbpvQ)を見たところ,これはいけない,ガートルードは登場からして,あらうことか滿面に笑みを湛へてゐる.すべて解決濟みとの風情である.ガートルードは浮かれに浮かれ,單なる『事故』から,輕率なまゝこの世を去つて,死後の裁きの場へと向かふ.たまたま毒に中つたは御氣の毒ながら.これでは先夫ハムレット王の亡靈も,こんな女を妻としてゐたかと,その羞づかしさから,蒼褪めたその顔をさへ,赤らめたに違ひ無い.もはや喜劇の始末である…出來は惡いが.どうやら,最早救ひやうも無い.

     さて,カットされたハムレットの臺詞とは,以下の通りだ.(原文Q2版の綴りによる)

    Ham.              once more good night,
   And when you are desirous to be blest(= blessed),
      Ile (= I'll) blessing beg of you,

     この臺詞は,最終場に至るガートルードにとり,延いては主人公ハムレットにとつて,この場面中『最も重要』な,ハムレットから母親ガートルードへの『言ひ渡し』である.この後のガートルードに纏る場面を,この臺詞無くして理解することは不可能だ.つまりこゝでハムレットは,いまだ完璧な悔悛にまで至らぬ母親へ向け,親子の證(あかし)とも言ふべき,親からの神への願ひ,すなはち blessing を「あなたが心より悔い改めたいと願ふまでは,拒み通す」と宣言したのだ.その時までは親でも子でも無いと言ふ言葉なのである.

     芝居としては,この臺詞から,ガートルードの『心のうちの苦しみ』卽ち,第5場で,亡靈が『預言』した「己が良心の荊の棘に苛まさせよ」との,新たな筋立てが始まることになる.つまりである,ガートルード役者にとつては,これを起點に,役者としての見せ場が始まるのだ.この臺詞があればこそ,ガートルードは,千〻に心を亂した末に,ハムレットからの手紙によつて,クローディアスによるハムレット殺害の企みを知り,己の輕率な罪を深く悔い,その徴として杯を手に,ハムレットへの blessing『祝福』を行ふのである.つまり上記の臺詞が無いのなら,敢へてクローディアスの制止を退けてまで,杯を手にする必要も無い事となる.

     その最終場の遣り取りは,以下の通りだ.

    Quee.    The Queene carowses to thy fortune Hamlet.
    Ham.     Good Madam.

     こゝで注目して貰ひたいのは,ガートルードの宣言への,ハムレットの返答だ.Good Madam. である.これを坪内逍遙は「かたじけなうござるが……」と譯し,ある飜譯者は「ありがたく」あるいは單な儀禮的な挨拶として「母上」などゝ意味無く譯したが,いづれも臺詞の重みに關して,理解を缺いた譯である.

     明らかにこれは,單なる禮と言ふものでは無く,ガートルードからの悔悛の表明に向けた『承認』の意の言葉だからだ.となれば,當然,これに呼應する臺詞となれば,前(さき)に掲げた第11場のハムレットによるガートルードへの『言ひ渡し』を措いて他に無い.その『完結』をシェイクスピアは描いたのである.

     兎にも角にも主人公ハムレットにとり己が母親の悔悛は,第2場における所謂第一獨白以來,重く伸し掛かる問題であり,つまりハムレットの抱へた『問題』は,クローディアスを抹殺するだけでは,終りはしない.己が母親の,不貞に等しい『墮落』に終止符が打たれぬ限り,本來は快濶であるハムレットの『惱み』が收まることは無く,いはゆるハムレットの『復讎の遲れ』なるものも,そこにこそ原因がある.

     それがやうやく最終場に至り,解決を見るとの極めて大事な場面なのだ.こゝに於いてこそハムレットは,心置き無く,クローディアスへの復讎に向かふ事が出來る.たゞし,杯にはクローディアスにより毒が盛られて,悔悛の意を傳へる爲の杯が,死への杯となるのである.まつたく皮肉な事ではあるが,世には,かくなる悲劇が起こり得る.デズデモーナやコーディーリアへも,苛酷な運命が訪れたやうに.

     さて,このDVD版の飜譯では,ハムレットは,僅かに「母上」とだけ言ひ,何ら氣にも止める風無く,頻りに劍の選定をのみするばかりだ.これでは,まつたく,芝居の筋が見失はれたまゝ,たゞ淡〻と無機質に,と言ふより頓珍漢なまゝに,事が進行するのみとなる.これを『悲劇』とは,どれほど世辭を心がけても,言ひ樣が無い.

     かうした事が起きるのも,件(くだん)の臺詞を輕率に,カットなどした當然の結果であるが,そもそも氣輕に削るとは,演出の蜷川氏が,まつたく『ハムレット』を理解してはをられぬからであり,また飜譯者氏も,カットにクレームを附けてはゐまいから,一體全體,何の爲に飜譯,上演に及んだか,不思議千萬と言ふほかは無い.

     たゞ,まあ,かうした『無理解・誤解』の『頓珍漢』は,日本に限つたことでは無い.いや,それどころか,カット無しの完全版だの『本場物』などゝ,したり顔の,今や英國男爵(Sir.)にまで上り詰めた Kenneth Branagh による『ハムレット』でさへ,カットはせずとも似たもので,ガートルードは最終場,同じく浮き浮き御登場となる.

     そして當然,ガートルードによる『祝福』場面も,息子の勝ちに浮かれた餘りの振舞ひで,以下の経緯は『事故』扱ひの有樣だ.つまり,そもそも,今囘カットされてゐる臺詞の持つ意味合を,彼らもまつたく理解してゐないのだ.シェイクスピア劇の『本場・傳統』を氣取らう英國すら,この始末である.日本の演出家の頓珍漢のみ,責める譯にも行かぬ『慘狀』こそ,今日の『ハムレット』をめぐる現實なのである.

     もつとも,英國に,無闇,無邪氣に『シェイクスピア劇の傳統』を求めることには,無理がある.歌舞伎の樣な聯綿たる傳統は,實のところ英國には,まつたく無いからだ.あるのは精〻1660年の王政復古以降のもので,その前代の1640年頃よりの淸敎徒革命政府が,ありとあらゆる芝居・娯樂を禁止して,根こそぎ劇場も壞しつくし,英國の地ではシェイクスピア劇のみならず,あらゆる芝居・舞臺の傳統は,その時『絶滅』させられたからだ.殘つたものは,印刷物のみ.すなはち上演の實際は,まつたく受け繼がれてなどゐ無いのである.

     今日あるのは,したがつて,王政復古以降の硏究家による,僅かに殘された文獻のみから推測に推測を重ねての,大變な苦勞と努力の末の結果であつて,たとへば今では『シェイクスピアの劇場』と言へば,半野外の圓形建物であつたことが知られてゐるが,淸敎徒革命による『絶滅』を挾み,さうしたことすら,まるで忘れられてゐたと言ふ.

     つまり全ては『絶滅』の後の,硏究家による『發見』の賜物で,『考古學的成果』に過ぎない.これを眞正の『傳統』だとは,なんとも言ひかねる.

     こんな譯で,『ハムレット』といふ御芝居も,エリザベス朝やジャコビアン時代,いつたいどのやうに上演されてゐたものか,手懸りと言へるほどのものは,まつたく無い.これが今日の,譯の解らぬ『ハムレット』を『粗製亂造』させた原因である.是非とも日本の觀客には,かうした『オレオレ詐欺』に乘せられぬよう,心より,願ふ次第である.

     さて,最後に,役者諸氏へ.今日の世は,かうした『頓珍漢』の,極みと言ふべき記録が手輕に,しかも殆んど『半永久的』に殘る事となる.ついては是非とも愼重に,演出家を選ばれるよう.…老婆心ならぬ『老爺心』にて,失禮ながら.                                    

2014年6月28日土曜日

『ハムレット』とは何か.




ハムレット Hamlet 飜譯本文:
Scene 1 Scene 2 Scene 3 Scene 4 Scene 5 
Scene 6 Scene 7 Scene 8 Scene 9 Scene 10 Scene 11 
Scene 12 Scene 13 Scene 14 Scene 15 Scene 16 Scene 17 Scene 18 
Scene 19 Scene 20

『マクベス(下書き)』は,こちら
                              

『ハムレット』とは何か. (1)

以下は,twitter の文章を綴り併せたもので,
取留めの無きところは,今後折〻に修正加筆する.


『ハムレット』に關しては,實に樣〻なことが言はれ語られ傳へられるが,決定版と言つて良いものに出會つたことがない.あるのは,斷片的に,登場人物に割り振られた臺詞(せりふ)に感心する類ひの他は,『哲學的な,餘りに哲學的な』とでも言ふ他無いものばかりだ.或は核心を語らうとしない.邊りを迂路つくばかりの有樣だ.

昭和期の英文學者福原麟太郎は『シェイクスピア講演』の中で,自分は,ハムレットが母親ガートルードを詰る場(俗に第3幕第4場)が終ると興味が無くなり,殆どの場合そこで退席すると述べてゐる.それでゐて,この作を,失敗だとも駄作だとも言はぬ.妙なことである.

福原の退席は,彼が以降の展開を誤解してゐたからであらう.上演側も誤解に基づく芝居作りをしてゐた筈で,兩者とも芝居の後半は,たゞドタバタと人が死ぬ『無機的な』展開あるのみと考へてゐたからに他なるまい.つまり芝居を通じてのテーマが把握されてゐないのだ.

ともかくも,「ハムレット本人は興味深いが,筋書きは『添へ物』」と見るのが,大方の感想であらう.つまり作者は芝居そのものより,主人公ハムレットといふ『人物像』を描きたかつたとの見方である.ハムレットの『憂鬱』だの『英雄指向』だのと語られる所以である.

ハムレットと『憂鬱』は常に對で語られるが,生來彼が『憂鬱症』を患つてゐた譯ではない.原因は明らかだ.母親の,餘りに早過ぎる『再婚』である.しかも相手は豫〻餘りに受入れ難く思つてゐた父王の弟,叔父のクローディアス.こんな事態は誰にとつても許せまい.

更にこの再婚はキリスト教の戒めに反する.
  レビ記 20:21 人もしその兄弟の妻を取とらば是汚はしき事なり 彼その兄弟の
        陰所を 露はしたるなれば その二人は子なかるべし 
つまり神に祝福されざる結婚である.これに目を瞑るデンマークは,汚れの極にある.ならば『憂鬱』も取り憑かう.殊更ハムレットに限つた事ではない.つまり,その程度のことなのだ.

「デンマークは,汚れの極」…これが主人公ハムレットの開幕當初の『認識』だ.であれば彼は,その事態にどう立向ひ,その試みは如何にして成し遂げられたか或は否かをリポートすることが,劇作家の役目である.つまり芝居は,この筋立てを『核』とする他はない.

ところが,この點の認識が極めて曖昧な評論に溢れてゐるのが,戯曲『ハムレット』を取卷く今日の現狀だ.

主人公が命を賭して,穢(けが)れたものを淨化する,さうであるなら『ハムレット』も,決して不可解な『問題劇』などではなく,その點からすれば『有觸れた芝居』となる.有觸れたとは,それ自體,褒め言葉では,當然,ないが,芝居の枠組とは,さうしたものだ.その枠組が有觸れてゐればこそ,芝居の中身を鑑賞しうるのだ.

しかしながら,『ハムレット』に關しては,さうした視點からの解釋が,殆ど失はれてゐる.どれもこれも,『ハムレット』の特殊性を強調するものばかりに見える.それゆゑ『問題劇』なのだらうが,しかしこの芝居は,初演當初より,大變な評判をとり,人氣を博したと言ふ.はたして『問題劇』などゝ言ふ曖昧な代物を,エリザベス朝といふかジャコビアンたちが,賞讚したとは考へられぬ.何かきつと,今日の我〻の側に『見落し』があるのではないか.それは,何か.

僕の飜譯は,概ね以上のやうな『假説』から始まつた.




2013年10月19日土曜日

『ハムレット』第16場(4幕5場とも)について.その3

ハムレット Hamlet 飜譯版:
Scene 1 Scene 2 Scene 3 Scene 4 Scene 5 
Scene 6 Scene 7 Scene 8 Scene 9 Scene 10 Scene 11 
Scene 12 Scene 13 Scene 14 Scene 15 Scene 16 Scene 17 Scene 18 
Scene 19 Scene 20

『マクベス Macbeth(下書き)』は,こちら
                                      

『ハムレット』第16場(4幕5場とも)について.その3

さて,その他には,これを一種の『皮肉』と捉へる見方がある.「かつての(心身ともに)美しかつた女王は,もはやゐなくなつた,何處にゐるのか」との含みでは,と言ふのだ.

たしかに物語の流れからすると,觀客にとつて,理解出來ぬ『皮肉』ではない.しかし,それを強調することは,をかしな見方だ.觀客がどう受け取らうとも自由であるが,オフィーリアが『皮肉』を述べる必然性が無い.

つまり尠くとも,オフィーリアは狂ふ以前,實は女王が,穢れた女性であるとの認識を持つてゐたとしなければならぬ事となり,それは,この場までの展開からすると,あり得ぬ事だ.また,なにも觀客の立場からの見方に,登場人物が與(くみ)して,舞臺を拔け出す事は無い.あくまで,芝居の中の人物なのだから.

もちろん,かうした,圖らずも生まれる『皮肉』な局面を,ハムレットに限らず,シェイクスピアは『多用』してゐる.しかしそれは,偶然の齎すものとの範圍においてゞあつて,この場面で言へば,オフィーリアが『神』の如く,總てを見通す者として登場するなどはあり得ぬ事だ.

それにしても,何故かう芝居を,何事か『哲學的』なメッセイジを傳達する爲の『手段』のやうに考へるのか,まことに不可解と言ふ他は無い.


2013年9月16日月曜日

ソネット Sonnet 18 別試譯



ハムレット Hamlet  飜譯本文:
Scene 1 Scene 2 Scene 3 Scene 4 Scene 5 
Scene 6 Scene 7 Scene 8 Scene 9 Scene 10 Scene 11 
Scene 12 Scene 13 Scene 14 Scene 15 Scene 16 Scene 17 Scene 18 
Scene 19 Scene 20

『マクベス Macbeth(下書き)』は,こちら

                               


                              sonnet 18

       ひとつおまへを季節に擬(なぞら)へ,夏だとしようか.
       おまへがこそは,なほ麗しく,もの穩やかだ.
       がさつな風ども,結び初めし,花の蕾をいたぶるし,
       夏などほんの,腰掛けほどの短さと來る.
       時には膚(はだ)を,燒くかに天の,目の玉照りつけ,
       と,よくその,黄金(こがね)に輝く顔(かんばせ),雲へと隱れ,
       竝(な)べての見事なるものも,やがては,衰へる,
       思はぬ出來事,移ろふ自然に,手も入れられず.
       されどおまへの,永久(とは)なる夏は,翳(かげ)ることなく,
       今あるおまへの,その美しさも,失はれはせず,
       死神なぞに我が蔭の,下(もと)に入れりと,嘯(うそぶ)かせはせぬ.
       今や永久なる,この詩のなかに,生き行かうからは.
         この世に人が,息をし續け,もの見る限り,
         詩は生き續け,おまへに命を與へ續けよう.


              "Shall I compare thee to a summer's day?"

         Shall I compare thee to a Summers day?
         Thou art more louely and more temperate:
         Rough windes do shake the darling buds of Maie,
         And Sommers lease hath all too short a date:
         Sometime too hot the eye of heaven shines,
         And often is his gold complexion dimm'd,
         And euery faire from faire some-time declines,
         By chance, or natures changing course vutrim'd:
         But thy eternal Sommer shall not fade,
         Nor loose possession of that faire thou ow'st,
         Nor shall death brag thou wandr'st in his shade,
         When in eternal lines to time thou grow'st,
             So long as men can breath or eyes can see,
             So long liues this, and this giues life to thee,

2013年9月12日木曜日

ソネット Sonnet 18 試譯



『ハムレット Hamlet』飜譯本文:
Scene 1 Scene 2 Scene 3 Scene 4 Scene 5 
Scene 6 Scene 7 Scene 8 Scene 9 Scene 10 Scene 11 
Scene 12 Scene 13 Scene 14 Scene 15 Scene 16 Scene 17 Scene 18 
Scene 19 Scene 20

『マクベス Macbeth(下書き)』は,こちら

                               

                            sonnet 18

       ひとつおまへを,夏に擬(なぞら)へてみせようか.
       おまへがこそは,より麗しく,愼(つつし)みも深い.
       大風どもは,幼氣(いたいけ)な,蕾のうちの薔薇を襲ふし,
       夏の季節など,腰掛けほどの呆氣(あつけ)なさ.
       時にはギラギラ,天の目の玉,地を睨み附け,
       と,その,黄金(こがね)の顔(かんばせ)も,しばしば雲隱れ,
       世の美しきもの,ことごとく,やがては衰へる.
       不意の出來事,自然の齎(もたら)す變化に耐へ得ず.
       されど,おまへの永久(とは)なる夏は,翳(かげ)ることなく,
       今あるおまへの,その美しさも,失はれはせず,
       死神なんぞに,我が蔭の,下(もと)に入れりと嘯(うそぶ)かせはせぬ.
       今や永久なる,この詩のなかに,生き行かうからは.
         この世に人が,息をし續け,目にしうる限り,
         詩は生き續け,おまへに命を與へ續けよう.



            "Shall I compare thee to a summer's day?"

       Shall I compare thee to a Summers day?
       Thou art more louely and more temperate:
       Rough windes do shake the darling buds of Maie,
       And Sommers lease hath all too short a date:
       Sometime too hot the eye of heaven shines,
       And often is his gold complexion dimm'd,
       And euery faire from faire some-time declines,
       By chance, or natures changing course vutrim'd:
       But thy eternal Sommer shall not fade,
       Nor loose possession of that faire thou ow'st,
       Nor shall death brag thou wandr'st in his shade,
       When in eternal lines to time thou grow'st,
           So long as men can breath or eyes can see,
           So long liues this, and this giues life to thee,

2012年12月2日日曜日

Shakespeare の臺詞は,どう『詠まれる』べきか.(5)

『ハムレット Hamlet』飜譯本文:
Scene 1 Scene 2 Scene 3 Scene 4 Scene 5 
Scene 6 Scene 7 Scene 8 Scene 9 Scene 10 Scene 11 
Scene 12 Scene 13 Scene 14 Scene 15 Scene 16 Scene 17 Scene 18 
Scene 19 Scene 20

『マクベス Macbeth(下書き)』は,こちら
                                      

Shakespeare の臺詞は,どう『詠まれる』べきか.(5)

雜感:『間』といふものについて.

取留めの無いものと,多くの方に思はれてゐる『間』といふものにつき,
思ふ事など….

『間』は單獨では存在し得ない.

日本の短歌および俳句については,『1小節八拍』の流れの中で生まれるもの.

このリズムを外したのでは,單なる『無音』としか思はれぬ事となる.といふより『不快な』もしくは『頓狂な』無音狀態と言ふべきものとなる.『無音』と『有音』の狀態に一貫するものこそ『一小節八拍』のリズムなのだ.

『間』は「何も無い無音狀態ではない」との意味合ひの口傳が成立するのも,その前提として,『一小節八拍』のリズムが意識されてゐるからである.つまり,一小節といふ『全體』が『豫定』されずに,『間』だけが存在し得る事などは無い.

『間』は,『有音』または『所作』と對極にあるが,『一小節』を構成する要素といふ意味では,『有音』や『所作』と對等なものである.

無音は,次の『有音』により,『間』として認識される.または,作品そのものゝ『終了』により,『間』といふ有意な何ものかになる.つまり,繰り返しになるが,『有音』部と『無音』もしくは『所作無し』とにより,『有意の1ユニット』,つまりは『八拍』を形成する.

逆から述べれば,何事か『有意』の事柄を相手に傳へようと意圖する時,我〻の『念頭』には,『一小節八拍』の1ユニットが思ひ浮かび,有音の言葉は,その中で,言葉としての『生理』から,5乃至7音で役割を終え,おのづと『間』を生じさせることゝなる.

つまり,短歌・俳句を詠むものは,心の裡(うち)に,常に『八拍一小節』を『期待』してゐる.さなくば『間』といふものは存在し得ないと言つて良い.

何事かを傳へんとする情緖・情動が,1ユニットを構成する.或は我〻を『強制』する.

『有音』の言葉には,言葉そのものゝ持つ『論理』が働く.


…と,まあ,かうした『事情』が,Shakespeare の原文にも,あるか否か.この論の眼目は,そこにあるのだが,いまだ『本題』に到達致しませず,今暫くの御辛抱をと,願ふ次第にて…….