2012年6月7日木曜日

Shakespeare の臺詞は,どう『詠まれる』べきか.(4)の補の補.

                                      
Shakespeare の臺詞は,どう『詠まれる』べきか.(4)の補の補.

前囘「(4)の補として.」で,僕が拍数を『指折數へた』短歌といふのは,石川啄木の歌であつた.これを憶ひ出したのは,小中學の授業で刷込まれたせいであらう.

ふるさとの訛りなつかし
停車場の人ごみの中に
そを聽きにゆく

この歌の「そを聽きにゆく」は七拍での言ひ切りとなる.この爲『八拍目』の指が,宙に浮く.僕は『八拍目』が消えることも起るのだらうか,すは一大事と,まづは困り果てたのだ.

それが誤解であつたと判明した理由は,前囘記したとほり,『二度詠み』を思ひ附いたからである.歌を續けて二度詠まうとすると,必ず最終句の末に,いはゞ『休符』を入れないと,次が續かない.無理遣り立續けに詠むと,『棒讀み』にならざるを得ない.趣きも何も消し飛ぶことゝなる.

つまり『八拍目』は,單に『文字』を持たなかつただけで,消えてなくなつた譯ではないのである.

この歌を,例により,黑丸附きで表記すると,以下のやうになる.

ふるさとの ● ● ● /
 ● なまりなつかし /
ていしャばの ● ● ● /
ひとごみのなかに /
そをきゝにゆく● /

『八拍』のリズムは,やはり,この歌の全體を『蔭で支配』してゐると言つて良い.

また,四句目は,いはゆる,『七文字』との縛りから言へば『字あまり』であるが,何ら違和感を抱かせぬ.本來の八拍を,餘すこと無く用ゐたといふだけの事だからだ.

ところで僕は,前囘の『補足』を書いた時點では,「短歌および和歌の類ひは.すべて最終句末に『休符』が附くもの」と,生來の粗忽がたゝり,早吞込みして文を綴つてゐる.

しかし,「すべて」では無く,他に,句頭に『休符』を置き,第八拍目で句切り良く終るものもある.こちらは,續けて二度詠まうとも,歌の趣きを損ふことは無い.リズムが保たれるためである事は,言ふまでもない.例を,以下に,『黑丸』附きで示す.

こちふかば ● ● ● /
 ● にほひおこせよ/
うめのはな ● ● ● /
 ● あるじなしとて /
 ● はるなわすれそ /    菅原道眞 (初出は「はるをわするな」)

こゝろなき ● ● ● /
 ● みにもあはれは /
しられけり ● ● ● /
しぎたつさはの ● /
 ● あきのゆふぐれ /    西行




2 件のコメント:

  1. はじめまして、渡辺知明と申します。

    表現よみという考えで日本語の音声言語の研究をしています。

    このリズム論は以前に本で読んだことがあります。

    拙著『朗読の教科書』のリズム論も参考にしてくださるとありがたいと思います。

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  2. w-tomo 樣へ.

    comment, 御禮申し上げます.

    「このリズム論は以前に本で読んだことがあります」との御報せに感謝.著者名など,憶ひ出されましたなら一報下されたく,御願ひ申し上げます.

    日本の詩歌,和歌俳句短歌,また歌舞伎の臺詞などゝなると,とかくに字面の文字數のみが注目されて,七五調など,奇數で構成されてゐるとの『常識』が幅を利かせてをりますが,そこで止まるのは,些と妙ではと,何とは無しに考へてをりましたところ,『一小節八拍』に思ひ至りました次第です.

    兎も角人間の生理としては,『呼吸』といふやうに,呼氣と吸氣の偶數により,息を整へなくてはなりません.文字を目で追ふだけならば,奇數となるが,たとへば役者は,臺詞のうちの,どこかしらで,奇數の『附け』を支拂ふ算段に迫られます.それが『間』の意味するところです.

    今日,『讀む』との單語は,字面を目で追ふことを意味するが,本來『讀む』とは,聲に乘せて『音』を發する事を意味したとのこと.人は誰でも,目で追ふ際にも,心の裡では『聲』に出してゐるのだが,あまりに『理』が勝り,氣附かれ難く,忘れ去られてゐるのが實狀です.

    さてまあ,國語に關しては措き,その『一小節八拍』といふ,最も人間の『生理』に適ふ枠組が,Shakespeare の原文すなはち blank verse のうちにも,もしや,『隱されて』ゐはしまいか,といふのが僕の,目下の興味なのですが,まだ明確な結論には,達してをりません.あゝ,しんど….

    紹介戴いた御著書『朗読の敎科書』,參考させて戴きます.

    以上,御禮かたがた.        neverneverland


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